弘道館
日本最大の藩校跡、国の重要文化財。
- 国指定 重要文化財(正門・正庁・至善堂)
- 国指定 特別史跡
150年以上前の「弘道館の戦い」でできた弾の跡がそのまま残る正門、幕末の水戸藩の歴史を感じられます。
水戸藩の藩校であった弘道館、第9代藩主の徳川斉昭によって創設、江戸時代末期の1841年に仮開館し1857年に本開館されました。幕末の動乱を経て、学制が公布され閉館する1872年(明治5年)までの約30年間を藩校としての大きな役割を果たしました。開国の要求をますます強めてきたイギリス・アメリカ・フランス・ロシアなどの諸外国からの侵略から日本の独立を守り、発展させることが大切と考えた徳川斉昭が、そのためには優れた人材を育てることが必要であると考え創設されました。
水戸城の三の丸につくられた弘道館は藩校としては日本で最大規模を誇り、儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽などの学問と剣術・槍術・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳などの武芸、医者を養成する医学館では医学・薬学など、幅広い教育が行われていました。明治維新のころ、水戸藩内でも藩内抗争が広がり、1868年(明治元年)に藩内最後の激戦といわれる弘道館の戦いが起こりました。この戦いで文館・武館・医学館などの多くの建物が焼失してしまいました。この戦いのときの傷跡が正門の弾の跡などに今でも残されています。
弘道館と同じく徳川斉昭によってつくられた偕楽園、学問と武術を修業する弘道館に対し、偕楽園はゆっくりと休養するところとして、斉昭によって一対の教育施設として構想されていました。
正門
特別な行事や藩主が通る場合を除き常時閉鎖されており、学生や役人は正門を使用せず通用門から出入りしていました。
正庁の玄関
弘道館の中心的な建物である正庁の玄関です。
正庁の「諸役会所」
弘道館来館者の控えの間として使用されました。「尊攘」の書は斉昭の命令により1856年につくられました。
至善堂の「御座の間」
大政奉還後に徳川慶喜はここにこもり謹慎生活を送りました。
正庁の柱の弾の跡
1868年(明治元年)に起きた藩内抗争である弘道館の戦いでできた弾痕です。庁の玄関で
正庁の「正席の間」
学問の試験が行われたり、外の対試場での武術のの試験を藩主が見た重要な場所です。
番所
横の通用門を通る人を見張るために番人が詰めていた場所です。
農人形
斉昭は「愛民謝農」の心で自作の小さな農人形を食膳におき食事のたびに最初の一箸を農人形に供えたといわれています。
駐車場(入口すぐ横)
入口のすぐ近くに無料駐車場があります。
JR常磐線他 水戸駅 0.6km(徒歩で8分)
北関東道 茨城町東IC 8km(15分) ・ 常磐道 水戸IC 10km(20分)
変化に富んだ海岸線や久慈川、那珂川の清流をはじめ、八溝山系の山並み、滝や渓谷などの季節ごとの豊かな自然景観が楽しめます。
水戸黄門として有名な徳川光圀ゆかりの地で歴史的にみどころも多いエリア。太平洋岸はマリンレジャーや豊富な海の幸が楽しめます。
日本百名山である霊峰筑波山、日本で2番目に大きい霞ヶ浦がシンボルです。筑波研究学園都市を中心に発展が進んでいます。
南部を利根川、中央に鬼怒川が流れています。
古い歴史があるエリアで指定文化財が多く、平将門ゆかりの場所も残されています。
太平洋と霞ヶ浦に挟まれた地域で、東国三社として古くから信仰を集める鹿嶋神社と息栖神社があり、古くからの歴史があるエリアです。